長篠・設楽原古戦場

                                           2001年9月22日(金)

  2000年に仕事を変わり、2001年は母親の葬儀と、アウトドアどころではない日々が続いておりましたが、初盆を終え、やっと普通の生活に戻りました。
  ここで半ば唐突に長篠です。戦記物のファンでもないし、信長ファンでもないのですが、当時、桶狭間の戦いの延長で長篠の戦いを調べていたと思います。9月21日東京で仕事、23日高浜で仕事で22日がぽっかりあいてしまいました。これ幸いと豊橋で前泊し、行ってみることにしました。長篠城から決戦のあった設楽原あたりを歩きます。

  長篠・設楽原の戦いの詳細はいろんなサイトに詳しく載っていますのでそちらを参照ください。特に、この戦いで信長が採った3000人の鉄砲隊を3組に分け順繰りに発砲する「鉄砲の三段撃ち戦法」が斬新だったがゆえに武田勝頼の「騎馬軍団」を破り、これが「大量の鉄砲を集中使用する日本軍事史上に残る画期的な戦法=戦術革命をおこした」というのが定説になっていましたが、これは疑わしいというのが主流になっています。専門サイトをいろいろ読みましたが、下記が詳しい。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-01.htm
http://eikorekken.client.jp/collaborate/nagashino/content.htm
オリジナルは下記書物のようです。ボクは読んでませんが…
鈴木眞哉著『鉄砲と日本人-「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)
名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)
藤本正行著『信長の戦争「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫 2003年)

 

【長篠城攻城戦】


■飯田線長篠城駅
ここで降ります。まずはマップ。この付近の決戦場はかなり広範なので長篠城址、それから電車で三河東郷まで行って設楽原決戦場に行くこととします。
天正3年(1575年)7月9日(グレゴリオ暦)、武田軍は長篠城北方の医王寺に本陣を置き、南東側の鳶ヶ巣山砦他4つの支砦を置いて、徳川方の長篠城を包囲していました。医王寺はちと遠いね。
http://maechan.net/kanreki/ (和暦西暦変換tool)←これは便利

■長篠城址
奥平貞昌率いる徳川方約500の兵が長篠城に籠城、武田軍に善戦していましたが、落城必至の状況となり、鳥居強右衛門を岡崎城に援軍を要請させました。援 軍を送るとの確約を得た鳥居は長篠城に戻ろうとしますが、捕らえられつつも武田方を騙して「援軍来る」を伝えます。これに怒った武田方は鳥居を磔にしまし た。城址の入り口には磔の鳥居強右衛門の大きな図が掲げられていてビックリ!

■鳶ヶ巣山の古戦場を望む
鳶ヶ巣山は2つのピークの手前にある開梱された山だと思います。
酒井忠次率いる織田・徳川連合軍約3000名は尾根伝いに鳶ヶ巣山の南側から武田軍の後方へ回り込み、奇襲。5月21日早朝には、全ての砦が陥落したそう です。これにより、長篠城の救援と、有海駐留の武田支軍も掃討したことで設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことに成功した。
よくもまああんな山の中を夜に進軍したものだと思います。3000名も!

■本丸跡と土塁
長篠城の徳川軍は、鳥居の死を見て大いに奮い立ち、援軍到着まで持ちこたえたということです。
今はあくまで静かな城址となっています。

■内堀跡も健在です

■天然の要害

長篠城の南と東は深い所を川が流れていて天然の要害になっています。

■すぐ東を飯田線が走っています
長篠城駅まで戻ることも考えましたが、少し歩いてみました。近くのコンビニでペットのお茶を買ったことを覚えています。ちょうどお昼時だったので何か買って食べたかも?橋を渡って駅にいったことは覚えていますが、はて、鳥居駅だったか、大海駅だったか?

竹広・信玄台地】


■三河東郷
三河東郷駅に着きました。無人駅です。元々は川路駅と言ったようですが、1943(昭和18)年の飯田線国有化により重複を避けるため「三河東郷」に改称された由。駅舎は木造でしたが、2006(平成18)年に解体新築されたそうです。それならもう少し写真を撮っておくんだった。ボクの行った当時はまだ古いものの美しさや価値にはあまり無頓着だったので。

■信玄台地
駅北から広がる低い丘陵は、今、信玄台地と呼ばれています。武田軍が前線陣地を築き、西の連吾川の谷間に出撃して激戦の上、壊滅的打撃を受けた所です。武田軍は1日もたずに敗走・帰国し、少しの間は命脈を保ちますが、7年後に滅亡するので、ここで壊滅したといってもいいでしょう。この時は信玄は既に亡く勝頼が当主でしたが、勝頼台地や武田台地でなく、信玄台地となった。信玄人気の現れでしょうか。
さて、信玄台地の記憶がありません。どこをどこをどう通ったのか?途中、首洗い池らしき池があったような気もするので尾根上をまっすぐいったのかも知れません。しかしこの写真がどこなのか?右手に茶畑、左手に信玄塚があるんやな、と思いつつ登った記憶があるのでマップのグリーンの道か?何しろ12年前の話ですから。
首洗い池:http://www.ja-aichihigashi.com/kyodo/38.html

■新城市設楽原歴史資料館
丘の上には新城市設楽原歴史資料館がありました。合戦後、戦死者を葬った信玄塚は歴史資料館のすぐそばにあります。信玄塚は事前に調べていましたが、この資料館は予定外でした。とりあえず入ってみました。長篠合戦に関連した史料や鉄砲などが展示されていましたが、記憶はありません。庭にあった曼珠沙華だけが記憶に残っています。

 【馬防柵】


■狭い決戦場
馬防柵が復元されているので行ってみます。武田陣地の信玄台地と徳川陣地の弾正山の間の平地は連吾川をはさんで。狭い所では150m、遠い所でも300mくらいで狭いです。
当時は梅雨があけるかあけないかくらいの時期で、連吾川をはさんだ両側の平地は田んぼがあれば水を満々と湛えた状況、田んぼがなくても湿地状だったでしょう。武田騎馬軍団も徳川軍と戦う前にぬかるみと戦わねばならない。

■弾正山は衝立
馬防柵が見えてきました。左は徳川陣地の弾正山ですが結構切り立っていて、馬防柵を突破したとしても容易には駆け上がれない。織田・徳川連合軍の戦術は馬防柵を作って、じっと待っておき、突撃がある度に内側から鉄砲で狙い撃つというものなので、先に動いて突撃した方が被害は大きいでしょう。山の上や中腹からも狙い撃ちしたのではないかな。

■復元馬防柵
信長は連吾川沿い南北2Kmにわたって馬防柵を構築させました。各サイトや現地の戦場マップから、馬防柵の大まかな位置をマッピングしました(マップ参照)
この柵は3重に設置されていたところもあるようで、出撃用の木戸口も設けられていました。現地にはなかったですが、柵の下部に畳や戸板なども置いたんではないかな。

■馬防柵内側からの信玄台地
正面は天王山陣地と思います。さらに武田勝頼前線本陣(才ノ神・観戦地)は左端の外れかと思います。

■馬防柵の後ろに土塁
現地では見ませんでしたが、土塁には銃眼も作っていたそうな。

■馬防柵の前に空濠
こうなると塹壕ですね。

■鉄砲構え
空濠+馬防柵+土塁の3点セットのに隠れていて、相手の動きを待って動かないというのが織田・徳川連合軍の戦術の本質で、動かないのだから武田軍は突撃するしかない、そこを狙い撃ちというのが勝利の方程式であったようです。

■馬防柵は一段高い
当然ながら馬防柵は連吾川から一段高い所にあります。運良く柵直前に来たとしても、柵後ろの土塁や塹壕から狙い撃ちされたのでは武田騎馬軍団もたまったものではない。しかも、背後の弾正山は覆い被さるように迫っています。あたかも城壁を設けたような前線陣地です。しかし、武田騎馬軍団少人数であれ馬防柵を2段破って肉薄したというのはさすがというべきか。
設楽原というのでもっと広い所で決戦があったのかと思っていましたが、連吾川をはさんで睨み合い、武田軍がしびれを切らせて突撃しか選択肢がないような状況を作ったのが信長のソフト面での革新的なところなのでしょう。

この写真を次の日、英人のDavidに見せたら、これはワーテルローだと言っていました。ワーテルローの戦い(1815年6月18日)はナポレオン皇帝率いるフランス軍がイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍に負けたことくらいしか知りませんが、連合軍はこんな柵を作っていたのか?ちょっと調べた限りでは分かりませんでした。しかし、丘の下から上に向かって騎馬軍団が突撃して負けたというのは、ナポレオンは武田勝頼に似ているかも?ワーテルローは火縄銃の代わりに大砲ですが。

【正真正銘の設楽原】


■設楽原に向かいます
稲も実りを迎えてあくまでのどかな設楽原です。場所は東郷中学校の少し北東。この当たりで激戦があったとはとうてい思えません。
この後、中学校の北側の山裾に道があったので通った気がします。
八剱神社は家康の本陣があったところです。その上の山が家康の前線陣地。ちょっと登ってみましたが、Googlemapにあるような工場はなかったような?

■設楽原から弾正山・家康本陣を望む
正面が弾正山です。このあたりにくるとまさに「設楽原」の感じがします。しかし今はこの辺に新城バイパスが走っていて、景観が変わってしまったように思います。Googlemap(航空写真)を見ていると北方の丸山付近にも道路工事中のような山崩しの場所が写っていて、もう高速道路ができているかも知れません。

■連吾川対峙線
この左手に馬防柵が作られていた。左手に弾正山、右手に信玄台地。

■武田側から弾正山を望む
もう武田側に入っています。この辺りはかなり広いですが、激戦のあったという信玄台地ー弾正山間はかなり狭いです。この狭い所に、通説では織田・徳川連合軍3万5000(他に鳶ヶ巣山強襲部隊3000)、武田軍1万2000(他に鳶ヶ巣山に残した部隊3000)が集結して戦ったとは…
ただ、諸説はあって、織田1万2000-1万3000、徳川4000-5000とし、武田8000-1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000-7000という数字(高柳光寿の『長篠之戦』)が固い見積りのようです。それで、武田軍の損害を1万-1万2000、連合軍6000とするよりも、武田軍の損害1000、連合軍の損害600という数字の方がより現実的とのことです。この数字をみると、武田軍は負けたけれども、勢力からいうと善戦したと言えるのではないでしょうか?

■三河東郷駅に帰ってきました
短い間でしたが、設楽原激戦地の半分くらいは歩きました。静な山あいの村で狭い谷あいの田んぼなどはボクのイナカに似ていなくもない。
これを機会に長篠の戦いや織田信長に対する認識も新たにできました。

帰りは特急を張り込みました。新城で乗り換えだったかも知れない。車両はなかなか素晴らしく、乗客も少なかったのでサロンみたいなところを独り占めでした。代わりに、デジカメのケースを忘れてしまいましたが。


(おわり)

【本日のマップ】


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