「葛城二十八宿経塚巡行」を歩く

  葛城二十八宿経塚は、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚を言い、友ヶ島から和泉山脈、金剛、葛城、二上山を経て大和川の亀の瀬に至る葛城山脈(そもそも、この長大な山脈が葛城山脈、あるいは葛城山であった)に点在する修験道の聖地である。もっとも、役小角自身が法華経八巻二十八品を埋納したのでなく、山岳修験道の発展にしたがって、後世に埋納された、さらにその経塚をひとつながりの行場として葛城修験は形成されていったという文献もあったが、いずれにせよ、葛城修験道の聖地だ。

◆葛城二十八宿経塚の二十四番 平石峠(妙音菩薩品第二十四之地)
◆葛城二十八宿経塚の二十四番 平石峠(妙音菩薩品第二十四之地)

■役小角(役行者)
 役行者は、今からおよそ1300年前(飛鳥時代から奈良時代)に活躍した人。具体的には、壬申の乱の前後、皇極、済明、天武、持統の各天皇と同時代人、不比等より25才ほど年上、正式な僧でなく優婆塞。若いうちから、紀泉金剛の峰々を修行して廻った。山岳修験道の開祖と言われる。
 「日本霊異記」をベースに、空を飛んだとか、一言主神をアゴで使ったとか言われていて、最初にそんなことを聞くと以後調べる意欲も失せてしまうので、ちゃんとした文献(WEBもだが)をあげておく。

「葛城の峰と修験の道」中野榮治 ナカニシヤ出版
http://www.shiga-miidera.or.jp/blog/katsuragi28.html
http://inoues.net/mystery/ennoozu.html
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-e.htm

役行者年表http://kamnavi.jp/dk/kamo2800.htm
舒明 六年 634 葛上郡茅原にて誕生
大化 二年 646 十三歳 毎夜葛城山に登り暁に帰る。
大化 三年 647 十四歳 諸法は皆これ空と悟り仏教に帰依
白雉 元年 650 十七歳 家を出て葛城山で修行
白雉 四年 653 二十歳 春 熊野から大峯-順峯の始め
白雉 四年 653 二十歳 秋七月 金峯山から熊野-逆峯の始め
天智 十年 671 三十八歳 山上にて蔵王権現を感得
天武 二年 673 四十歳 金剛山寺を建てる
持統 九年 695 六十二歳 一言主神に石橋の工事を命ず。
文武 三年 699 六十六歳 伊豆大島へ配流
大宝 元年 701 六十八歳 母と共に昇天 後大唐に渡る

 

 さて、役行者の修行・活躍の場は、葛城山脈だけでなく、近畿一円(本州一円にも?)渡っている。近郊の山登りをしていると、あちこちで役行者像が祀られている。おそらくお地蔵さんについで多いのではないか。
 ボクは修験道の信者でも行者でもないが、役行者は子供のころから身近にあった。集落の奥には神南備型をした行者山というのがあったし、近くの山に登ると役行者の祠もあった。お隣のおじいさんが(多分)行者で、何かあるごとに行者装束をしていたし、村では、多分「大峰講」があったと思うのだが、年に何回かは持ち回りで講の寄り合いがあって、酒を飲んだりしていた。ザンゲ-ザンゲ-ロッコンショウジョー・・・・というのもしょっちゅう聞いていたし、法螺貝も一度吹かせてもらったことがある。スカスカで音は出なかったが・・・
 そういう環境でもあり、信者ではないがそのスピリットにはひかれるものがあったし、今もある。大学に入って山登りを趣味にしたのも、深層では役行者の影響、それ以前の山岳信仰への希求があったのではないかと思う。信仰心はあまりないので、山岳修行(もどき)への関心と言っておこう。信仰心はなくとも、経塚をつないで歩くというのは修行だ。修行というのはちょっとおこがましいが、経塚をつないで歩くというのは貴重な体験になった。

 

■経塚をつないであるく (2018/3/18完了)

  歩くための参考にしたのは以下のサイトおよび書籍である。
http://uo-shinji.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_d7c9.html
http://www.shiga-miidera.or.jp/blog/category/katsuragisan
「葛城の峰と修験の道」中野榮治 ナカニシヤ出版

 全体マップを描いてみた。厳密な巡行道はわからないが、可能な限り文献にある道を歩いた。経塚つまみ食いでなく、コマ切れのルートであっても、つながりのあるようにした。
 経塚、行所は修験のシンボルでそのシンボルに苦労の末に到達し、お参りする喜びは行者さんのもので、ボクのような素人には、少しはあるにせよ希薄である。しかし、今の時代、道中に難所は全くといいほどないにせよ、人里離れた山道を歩くことで、道々の自然を、花鳥風月を愛で、楽しむことができた。それだけでなく、人々の生活をみたり、荒れつつある自然の行く末を見つつ、考える、これが巡行の意味するところであると思った次第である。

経塚は第一番序品から二十八番亀石まで訪問しました。(2017/5/12現在)

さらに、途切れていた区間を歩き、今回のコンセプトであった「繋いで歩く」をコンプリートできました(2018/3/18)。

あとは、気になっている行所や周辺の地域訪問を兼ねて2回めを巡ります。

 

■やっと友ヶ島に来た。虎島に渡るには干潮時しかないので、潮位を調べるのが必須になり、調べたらいいだけの話なのだが、山登りと違って、なんとも妙な気持ちになって、ズルズルと一番最後になってしまった。しかし、ここにお参りしないと巡行も終わらないし、始まりもしない。

 序品窟までの海岸の岩場も楽しく歩けて序品窟にお参りできた。観念窟の登り降りはそもそも無理なので、上から覗いただけだが、最後の役行者像に対面すると「やっと来たな。ここからがスタートやで」と言われているような気になった。ブログ上は一区切りつけられるが、巡行とは一生続くものなんだろう。(2017年5月12日)

◆行所:

神島遥拝所、深蛇ヶ池、閼伽井跡

観念窟

蛇ヶ池

加太・役行者堂 迎之坊(2018/3/18)

 

■かつて西ノ庄から佐瀬川に向かって峠を越えたあたりに二ノ宿神福寺があった。明治期、陸軍の由良要塞の一部になり退転、今は祠が残るだけだ。
 里の小さな祠や地蔵堂をめぐり、峠を越える旅となったが、大層なお寺巡りより心に沁みる旅となった。単に経塚、行所を訪問するだけでなく、それを結んでいる道を歩いてつないで行き、最後に孝子越をすることが重要な要素となった。しかし、夏は暑い。春先がベストシーズンかと思う。(2015年7月11日)
◆行所:
ニノ宿西念寺観音堂
佐瀬川・慈眼院 (2018/3/18)
横手・八王子社と三の宿 2回目(2018/3/18)

横手・地蔵堂  2回目(2018/3/28)

孝子・金輪寺
孝子・高仙寺 (2016/3/16)

 

■巡行道通り尾根通しで高仙寺-飯盛-札立山-大福山と巡る予定だったが、足痛で撤退したため、2日を要した。孝子から大福山への道は葛城修験の道というだけでなくすばらしいプロムナードだった。道はほぼ平坦、見晴らし良好、季節によれば花もすばらしいだろう。
 大福山経塚は平成になってから、弁財天、観世音菩薩、大福山石標などを集積、再整備されて、樹木が刈り広げられベンチなども置かれて小公園のようになっている。行者さんだけでなく大阪、和歌山両市民の憩いの場として親しまれていくのだろう。(2016年3月22日)
◆他候補地・異説
雲山峰 (2016/3/29)
墓の谷 (2016/3/29)
大福山経塚旧地 (2016/3/22)
◆行所:
飯盛山(飯盛寺跡=千間寺跡、石宝殿) (2016/3/15)
落合・八王子社 (2016/3/29)

 

■第四番経塚、桜地蔵は雲山峰から谷におり、落合、滝畑を抜けて境谷入口の一瞬、泉州に入ったところにある。道路工事によって老木の桜のあった旧地から移動してきたものと言われる。お参りした時はヤマザクラが盛りを迎えていた。あまりお参りする人もないのだろう、経塚は少々荒れていた。目の前を高架のハイウエイが走りガタンガタンと音がする、あまり良くない立地だった。

(2016年3月29日)
(2016年4月6日):
2回目

(2017年6月13日):3回目
◆他候補、異説
山中溪関所跡 (2016/3/29) (2016/4/6)(2017/6/13)
◆行所
境橋 (2016/3/29) (2016/4/6)(2017/6/13)
境谷日吉神社、薬師堂 (2016/4/6)

熊野街道中山王子・王子権現跡 (2017/2/22)

滝畑金剛童子跡 (2017/6/13)

境谷・地蔵寺 (2017/6/13)

 

■第5番経塚への登りは谷筋にしっかりとした踏み跡があり、あっけなく終わった。一度目前にて撤退した者としては少々拍子抜けだった。雑木林に囲まれた平たい山頂に経塚があり、遠望は効かないが、木漏れ日の中、石碑と石灯篭の残骸がひっそりと残っていた。
 第5番経塚はたやすく訪問できるが、土仏峠とセットで訪問したい。上朽佛山、土仏峠まではスムーズに歩けたが、林道に出るまでがブッシュとなる。ブッシュとあわせて訪問することで倉谷山経塚巡行をひときわ充実させるものとなった。

(2016年4月26日)

2回目(2017年4月2日)
◆行所
根来寺 (2017/4/2)

クモ宿(クモ留)、鑓水宿 (2017/4/2)
今畑・白髪明神、多聞寺 (2016/4/6)
中畑・九頭竜明神 (2016/4/26)
神通・浦上神社 (2016/4/26)
押川の里 (2016/4/6)

 

■第6番経塚は、現在3箇所が知られている。いずれも神通温泉から粉河寺に至る途中の池田トンネルの手前の万燈谷を入っていく。志野峠、松峠の経塚は山上の峠でありながら里の香りがする。金剛山や犬鳴山のような行者が挑む厳しい山岳修験という感じはなくて、行者とは無縁の庶民も山仕事の合間にちょっとお参りしたり、旅人も道すがらお参りできる優しげな経塚だった。3箇所ともお参りしたが、代表として松峠の経塚を載せておく。

(2015年10月24日)(2018年2月27日)
◆異説
新説松峠

志野峠 2回め(2018/2/27)

万蔵地蔵(2018/2/27)

 

■第6番志野峠、松峠経塚からの尾根道はすばらしい里山みちだった。この道は昔は、粉河寺から中津川行者堂、アラレの宿経由、志野峠を通って犬鳴山に至る重要な行者道だったようだが、今は通る人も少ないらしい。本来の紀州の山道とはこういうものだったのだろう。アラレの宿経塚も「野にある経塚」のようでのんびりと休めるところだった。粉河寺から中津川を登ってきた行者さんもちょっとホッとしてお参りしたのだろう。(2015年10月24日)(2回め:2018年2月27日)
◆行所;
秤木ノ宿
中津川行者堂(2018年2月27日)

■七宝瀧寺の境内は色々なものがあり過ぎて、吸収するのに時間がかかった。七宝瀧寺は修験道の「再興を見つつある」と控えめな表現であるが、自分を変えることのできる人づくりをしているようにみえた。色々考えることの多かった境内とはうって変わって、無心で山に登った。第八番経塚は経塚権現山にあった。だれもいない清々しい山頂で一対一で経塚にお参りでき立ち去りがたい気がした。天狗岳の天狗魔王尊は、「世の中に天狗は数々あるがワシが本当の天狗じゃ」と言っておられるようだった。(2015年10月8日)
◆行所:
燈明ヶ岳七宝瀧寺奥ノ院
天狗岳天狗魔王尊
蛇腹
◆根本道場:
犬鳴山七宝瀧寺

 

■スカイラインを歩いて和泉葛城山の頂上に来た。スカイラインは全然うれしくはないのだが、この道も犬鳴山から中津川の行者堂や粉河寺へ、また葛城山や東ノ燈明ヶ岳に繋がる由緒ある巡礼道だ。心して歩こう。葛城山は見晴らしの良い平原状の山で、泉州、紀州の両方から雨乞いの山として信仰が篤い。龍王が経塚になっているのは珍しいという。樹林に囲まれた静かな山頂だった。一人の行者然とした人が一心に般若心経を唱えていた。(2015年10月8日)(2015年10月24日)・・・2回め

 

■葛城山から牛瀧山に降りる。牛瀧山大威徳寺が第10番の経塚だ。牛瀧山へは「地蔵さんのみち」が通じていて、享保年間建立の丁石地蔵さんが迎えてくれた。巡礼としては、地蔵さんの道とセットで牛瀧山の経塚を訪ねるべきだろう。牛滝山は楚、瀟洒のなかにも威厳は感じる静かなお寺で、苔むした自然石の経塚が迎えてくれた。
(2015年10月8日)

(2016年2月19日)・・・2回目
◆行所:
大沢 神福寺跡(2016/2/19)
高座山轉法輪寺(2016/2/19)
高座石(2016/2/19)

 

■第11番経塚は鍋谷峠の東、経塚山の三角点すぐ北にある。ここは西の堂屋敷といわれていて、龍宿山七輿寺があったらしい。少し東の七越峠は父鬼から登って東ノ燈明岳へ抜ける葛城修験の行者道、粉河寺から槙尾山施福寺への西国三十三ヶ所巡礼道、堀越観音への道という、信仰の道が集まる場所で、紀州、泉州を結ぶ重要な峠でもあった。ここのお地蔵さん峠を通る行者も旅人もすべてをお守りしてくれているようだ。

(2015年10月24日)
◆行所
宿山:金剛童子祠、七大龍王社
父鬼・観音寺(2016/2/19)

 

■七越峠のお地蔵さんに別れを告げ、尾根伝いにやってきた。尾根は平坦で、ヒノキ植林はあるものの、ところどころに自然林や展望場所もあり、ゆったりできる尾根歩きだった。「まきのを」と彫った道標のある巡礼道と交差点のすぐ上手に経塚があった。ここは護摩の多輪とも言われていて、大昔には畑で、言伝えで経塚と言われていたので堀越の人が掘ってみると古い鏡が出てきたので経塚として祀ったという。今は山の中だが、里近くの経塚だったのだ。(2015年10月24日)
◆行所:
神野の里阿弥陀堂(2016/6/26)
神野・若宮八幡宮、正楽寺、弁天堂
文蔵の滝(2016/6/26)

 

■堀越観音から蔵王峠に至る小峠から尾根を登って山頂に達すると、松の大木の根本に「大日如来」と彫った石碑があった。第13番鎌の多輪経塚だ。街道の峠から離れた静かな山頂だった。お参りするものはこのくらいの坂道は厭うな、と言っているようだった。元々、燈明嶽の燈明峯寺にあったが、同寺の退転により、現在の鎌の多輪に移転されたと考えられている。当日はもう夕方近く、コンロガス欠のため、巡行を続行するか迷ってのお参りだった。結局、食料不安のため下山することに決めたのだが、ひどく疲れての下山になったのを覚えている。(2015年10月24日)
◆行所:
東の燈明ヶ岳
堀越癪観音

 

■第14番経塚は佛徳多輪などと言われ、江戸時代以前には光滝寺(近辺?)にあったことははっきりしている。今は第14番経塚は南葛城山東の一本杉にある。通常、滝畑からノゾキ平経由のケースが多いが、今回は紀見峠?17番天見不動?九重越道の尾根コースをとった。桧樹林だが、平坦でのんびり歩ける良いコースだった。一本杉からはササ原の南葛城山、修験の里大畑、蔵王権現など見所、行所も多い。時間さえあれば、堀越観音、東ノ燈明岳、13番鎌のタワも訪問でき、蔵王谷を下れば光滝寺にもお参りできる。
 光滝寺は昔の推定ルート通り、第15番岩湧寺から峠越えで横谷、滝畑経由で入ったが、蔵王谷を下るのと同様に、のんびりと舗装道路を下りながら、昔の行者道の難渋さに思いをはせるのもよいだろう。(2015年11月21日)
◆経塚候補:光滝寺 (2015年11月16日)
◆行所
大威徳明王碑
大畑・勝楽寺
蔵王峠・蔵王権現

 

■第15番岩湧寺には経塚が東西2つあるとされてきた。西は峠近くの尾根先に現存する五輪塔。東の経塚(の五輪塔)は不明だが、今の行者堂あたりではないかと言われている。2つともお参りして、その場所はどちらも小さな尾根先端の崖の上、これ以上行くと転げ落ちそうな場所にあった。樹木さえなければ互いに見えるのではないかという位置関係にあった。両者はペアではないかと、強く感じた経塚だった。

(2015年11月16日)
◆行所:行者堂

 

■天見駅から流谷を30分ほど上ったところに流谷金剛童子案内板があった。小川を渡り畑のあぜ道を登って、竹やぶの中の猪垣を越えていくと、山の斜面の段差の上に経塚があった。昔は段差の下は田か畑で、里道からも見通せたのだろう。経塚は里人にも過去のものになったしまったかと思ったが、帰りに竹伐りに来たおじいさんに「お参りにきました」と挨拶したら「ああそうかいな、それはどうも」と返ってきて、まだまだ忘れ去られてはいない様子だった。若い人どうなんだろうか?

(2015年11月16日)

 

■天見から流谷を遡り、さらに砥石谷を遡る。砥石谷入口は第16番流谷金剛童子から約500m下流なので、合わせてのお参りもいいだろう。ゆったりした砥石谷を小一時間詰め、小さな尾根を乗越して、根古谷下降点の休憩所から少し北に折り返せば、そこが第17番経塚・天見不動だ。杉林の小広い平地は砥石谷のもう一つの源頭部で、だれ一人通らない静かな場所だった。土日にはハイカーやランナーがもっと通るのだろうが、ここが経塚と気づく人はどれくらいいるのだろうか。(2015年9月14日)(2015年11月21日) ・・2回め

 

■第17番天見不動から紀見峠経由で尾根づたい(ダイトレ)に西ノ行者に向かい、さらにタンボ山西鞍部から尾根づたいに十字峠、府庁山を越えて岩瀬 の経塚山(岩瀬山とも)に向かった。タンボ山から十字峠へは大部分は林道があって楽に降れるが、尾根道も健在のようでぜひ歩いてみてほしい。
 江戸時代以前は第18番経塚は柱本にあり、紀見峠からいったん柱本に降り、柱本道で尾根に上がって西ノ行者堂に向かったか、紀州側の山麓にも参詣道があって、山麓の行所をめぐる人々もいたらしい。18番岩瀬の経塚は急斜面を登った岩瀬山山頂にあり、俗人を寄せつけない厳しさを感じた。経塚巡行とは異なるが、岩瀬の塞ノ神は一見の価値がある。(2015年9月14日)
◆行所:西ノ行者
     柱本・極楽寺 (2015/12/5)

 

■かつては荒行として、紀見峠から尾根づたいに西ノ行者、東ノ行者(行者杉)を経て神福山を目指したという。一方、山麓の行所、諸寺をめぐるコースもあったらしい。その山麓諸寺から、まずは行者杉を目指して登っていった庶民も大勢いただろう。行者杉から山麓へ降る道を歩くと、そのことがよく分かる。行者杉、神福山は行者だけでなく庶民がお参りする山でもあった。今回は久留野峠からの下り道で、「行」にはほど遠く、ちょっと申し訳ない気がした。(2015年9月5日)
◆行所、役行者縁の地:
大澤・大澤寺  (2015/12/5) 2回目(2016/12/18)
境原・小峯寺  (2015/12/5)
隅田・東覚寺  (2015/12/5)
不動山巨石
杉尾・明王寺
行者杉(東ノ行者) 2回目(2016/12/18) 
西ノ行者堂 (2015/9/14)

北山・草谷寺・経文塚 (2016/7/6)
北山・元草谷寺跡、龍頭塚、高天岸野神社、龍胴塚 (2016/7/6)

龍胴塚(2回目) (2017/6/10)

 

■小和道を登るはずが、伏見峠から下ってのお参りとなった。小和道は少々荒れてはいたが、樹林の中、随所に古道らしい深掘れ構造があり、欽明水も健在だった。
 経塚は今までの樹林とはフキの葉に被われた明るい広場に建っていて、フキの緑と大岩の対比がおもしろく、他の経塚にはない独特の雰囲気を醸し出していた。

(2016年5月2日)

◆行所:
小和・鳳凰寺

久留野・地福寺 (2017/6/10)

 

 

 

 

 

 

■金剛山は葛城修験の聖地である。最高峰の葛木岳(1125m)には葛木神社が鎮座しているので、経塚といえども、第二の高峰・湧出岳(1118m)に遠慮したかのように作られていた。役行者は今から約1,300年前、16歳の時から、古の葛城山(今の金剛山、葛城山を含む)で修行し、全国各地の霊山へ駆け巡ったと伝えられる。金剛山は山登り、毎日登山、ハイキング、沢登り、トレラン、キャンプなど幅広く楽しめる山であるが、単なるレジャーの山でなく、そこに一本の芯を通しているのが、葛城の神と葛城修験という信仰だろう。 湧出岳の経塚と転法輪寺、葛木神社にお参りしてつくづくそう思った。(2015年9月22日)
◆根本道場:
金剛山転法輪寺
◆行所:
葛木神社
岩屋文殊 (2016/5/2)

 

■関屋道は、小和道、関屋道、千早本道、水分道とともに金剛山の信仰を支える町石のある古道だ。葛城修験の根本道場である転法輪寺、葛木神社、第21番経塚をお参りしたあとは、この関屋道を通って第22番経塚小田和地蔵をお参りするのが順当だろう。関屋道は朝原寺跡付近で道が悪いとか、ブッシュであるとまマイナス情報があったが、最近は歩く人も多いようで、ちゃんとしたパイパス道、踏み跡があった。めでたいことだ。小田和地蔵は杉の巨木の下にひっそりとお祀りされていた。もっと多くの人に関屋道を通ってお参りしてもらいたいものだ。

(2015年9月22日)

 

■「葛城古道」歩きで賑わう、猿目六地蔵からわずかに離れるだけで誰も訪れない路地裏に地蔵寺跡の五輪塔があった。ここには古い地蔵さん、石碑などが集められていて、賑やかだ。新しい地蔵堂もあった。ここも「葛城古道」だ。六地蔵に来たのならここまで足を延ばそう。その六地蔵も第23番倶尸羅経塚の候補だ。そこからわずかに御所に向かって下ったところにも素晴らしいお地蔵さんがおられる。(2015年9月22日)(2020年9月14日)
◆異説
猿目の六地蔵(2009年11月7日)、 (2020年9月14日)
・堺那寺の経塚(現存しない)→不動寺
◆行所
櫛羅の滝(尼の滝)
大和葛城山頂の天神社・不動堂・行者堂
役行者祈りの滝
茅原山吉祥草寺(2020年9月14日)

 

■河内側、高貴寺道標から約30分、ゆったりとした峠道を登ってゆく。峠道上部は植林はされているものの「山里の峠道はこういうものか」と思えるほど「野」の風情が残っている。平石峠直前の右斜面に第二十四番経塚がある。役行者と不動明王が峠道を見下ろしている。「涼やかさ」を改めて感じた峠の経塚だ。役行者がここに経塚を定めたのもうなずける気がした。(2015年6月25日)

(2回目:2016年6月10日)
◆異説:小鷲の宿(不明)
◆行所:岩橋山・久米の岩橋、胎内くぐり他 (2016/6/10)

 

■磐船神社から静かな樹林の水平道を通り、少し明るくなって門前にきた。観光寺院でなく人も来ないような古寺そのものだ。「神さぶる」とはこういうことだろう。残念ながら写真禁止、本堂以遠は勝手に入るなということだった。この時点でかなりムッときたが、後で調べると、修行の場、俗化は拒否するというのがご住職のポリシーのようだ。ここに来るにはそのポリシーに対峙するだけの哲学を持ってこいと言っていると理解して納得。ムッときた感情をほぐしてくれたのがこのヤギ君だ。高貴寺は枝垂れ桜、仏像だけにあらず、ヤギも高貴寺のうちだった。(2015年6月25日)
◆行所:磐船神社

 

■平石峠からいったん當麻寺に降りて、岩屋峠を登るのが順路となっている。當麻寺は、金堂に安置された役行者像を見て衝撃を受け、葛城二十八宿経塚巡行を考える契機になったといえる記念すべきお寺だ。

 岩屋道は緑あふれる谷道で涼しい行者道だったが、登る人は少なかった。岩屋峠からの二上山は、良いお天気、土曜日、心地よい風が吹く新緑の道で、健康な老若男女で溢れかえっていて「市民スポーツの山」の趣が強く、修験行場は見向きもされない様子だった。(2016年5月14日)
◆経塚候補:二上岩屋
◆行所:

 鹿谷寺跡

 叡福寺
 當麻寺(2005/9/18)

 祐泉寺旧行場

◆関連場所:竹内峠・河内国山田郷役行者遺跡

 

■昔の行者さんは第26番二上山からどこにあった第27番経塚を訪れ、どう明神山に登ったのだろうか?鎌倉初期の諸山縁起では、「大坂の隣下(とうげ)(付近)に経塚がある」とされる。一方、大和から河内に向かうには古代から「大坂山を越える(大坂越、大坂道)」のがキーとなり、崇神天皇が大和の西の守護神として「大坂神」を祭ったとの記事さえある。その神社が大坂山口神社らしいのだ。その大坂山は今の穴虫峠や田尻峠より東の大坂山口神社あたりから始まる丘陵という考え方がある。これから第27番経塚は穴虫や逢阪の大坂山口神社近辺にあったと思うようになった。今、逢阪の個人宅にある経塚の位置も納得できる。

(2016年5月14日)
※写真は第27番ピンチヒッター 大坂山口神社(逢阪)の木の根

◆第27番経塚:逢阪大坂山口神社前の個人宅(非公開)
◆関係場所:

 大坂山口神社(穴虫) (2016/5/14)(2016/6/1)

 大坂山口神社(逢阪)
 関屋地蔵尊(2016/5/14)
 穴虫・大坂越(2016/6/1)

 太子道・穴虫峠(2016/6/1)

 

■逢坂から二十八番経塚の亀ノ瀬まで順路不祥で、今回、関屋-田尻-明神山-送迎越-亀ノ瀬のルートを取った。明神山は修験の香りは全くないが、すばらしい見晴らしの山で市民の健康登山でにぎわう憩いの場所だった。しかし、観光スタンスでの造形物もでき、いよいよ修験等、信仰とは無縁の山になりつつあった。
 亀ノ瀬岩は若干拍子抜けの感じもしたが、竜王社は葛城修験のしめくくりの経塚にふさわしいさわやかさがあった。最終の経塚であるが、まだ序品・友が島ま未達、途中にヌケも若干あるので、達成感はイマイチだった。やはりプロローグがあってエピローグという流れが必要に思った。(2016年12月2日)
◆経塚候補:明神山卒都婆峯

◆行所
亀尾宿(2017年3月12日)

 弁才天の窟(岩屋)
 龍田大神御座峯
 小鞍峯の普賢寺跡

 龍田大社

 金山媛神社、金山彦神社

 

(注)非https先の画像をリンクしているのだが、このカラムを修正しても、保存できない仕様になっている。httpsの重要性はわかるが、これはいくらなんでも、やりすぎちゃうの?

リンク元の画像を再収録して、「信頼できないサイト」の表示は消えた。(2017/5/25)

 

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